音読するとき、言葉たち(活字)は音声化されてほかの誰かに届くことを望んでいるのかどうかを問題としないでいいのか? 今日は日曜朗読サロンの皆さまにもご一緒に考えていただきました。ブログをお読みくださっている皆さまとも共有できたら幸せです。お手紙をくださった児玉さま、ご質問のお返事になるでしょうか(^^♪
音声化されて届くのを望んでいるのは、例えばアナウンス原稿の言葉。例えば演劇や朗読劇、落語etc語り芸といった上演の台本の言葉。音読者が語り手や発話者になれる言葉たちですね。
音声化されてほかの誰かに届くことを望んでいないのは、例えば黙読を前提に創作された小説の言葉。言葉を語る主体=語り手は作品の中にいるので、実際には聴こえませんが音声はすでに活字とともにあるのですね。その音声を奏でる語り手の身体の有りようは、活字として存在している言葉たちが教えてくれます。語り手の身体の有りようを写し取った自分自身の身体を奏でるのが朗読です。語り手の身体を見つけ出すのはたいそう楽しい!知的好奇心を存分に満たしてくれます。そして、語り手の身体を探しているうちに作品受容はどんどん深化していきます。豊かな読書体験ってこのように生まれるのですね。
音声化した結果よりも、音声化の過程が大切なのが朗読です。音声化の過程、すなわち語り手を追体験する朗読者自身の身体の有りようです。朗読教室でご一緒に語り手の身体を発見してまいりましょう!聴き手の皆さまにも、朗読者の身体とその身体によって奏でられる音声を手がかりにして語り手を追体験してほしいと願っています。朗読という読書の本当の喜びを皆さまとご一緒したいと心から願っています(^^)
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