いつもブログをご覧くださって心よりありがとうございます!
このたびホームページが始まりました(^^♪
https://marikoroudoku.wixsite.com/salondemariko
皆さま、今後ともどうぞ宜しくお願いいたします☆彡
ホームページ内のブログページで、引き続きブログを書いてまいります。ぜひお読みくださいね(^^)
朗読家📖石田麻利子のブログです。文学作品を朗読して〈声〉も〈言葉〉も豊かに育んでまいりましょう。ずっと瑞々しく魅力あふれるあなたでいてください(^^♪
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そこにある文字列を、聴き手に向けて、わかりやすく読み上げるのが朗読ですか?セリフなどは、ニュアンスを込めて読み上げるのですか?
でも朗読者は、こういう方ばかりではありません(^^)
小説を朗読する際には、作品世界の中にいる〈語り手〉という他者を、深く理解しようとして、懸命に言葉と向き合っている朗読者も、大勢いらっしゃると思います。私も、そうありたいと思いながら朗読を続けています。
アナウンスの延長のような、もしくは、一人芝居の簡易版のような、旧態依然とした朗読に疑問を持たず、小説を、まるでアナウンス原稿のように、もしくは朗読劇の台本のように、(知らず知らずのうちに)扱っていると、残念なことに、その朗読者の感性は確実に鈍ります。感性の衰えは、目には見えません。自分で気づかない、気づけないから、とてもおそろしいですね。
小説の朗読は、声を出して読む読書です。声を出して読むことで、自分が読めていないことー〈語り手〉を理解できていないことーを知ります。そして、そこが、スタート地点です(^^)
という問いに対して、何を朗読するのかという前提を無視しないようにと言い続けた1年だったように思います。
音声で聴き手に届く文字列…例えば朗読劇(一人でも複数名でも)の台本やアナウンス原稿を朗読するならば、朗読は、朗読者の音声表現です。
でも、小説は文字で読者に届くもの。音声で届く類いのものではありません。小説の朗読は、〈語り手〉を理解した読者が〈語り手〉を追体験する行為です。小説の朗読では、朗読者は自分の靴を脱いで〈語り手〉の靴を履きます。その意味で、朗読者が自分の靴を履いて行う音声表現とは真逆かもしれません。
秋から森絵都さんの『こりす物語』を大切に読み進めています。今日は【5】に取り組みました。
黙読が一人で取り組む読書なのに対して、朗読は皆で取り組む読書。今日も朗読(朗読をする+朗読を聴く)を通してたくさんの発見があり、〈語り手〉理解が深まりました(^^♪
本当になんて豊かな体験をプレゼントしてくださるんでしょう!皆さんが見せてくれる〈作品世界〉が、私の見ている〈作品世界〉を格段に、膨らませ、厚みを与えてくれます!例えば…
(6)「あまりに、」という最小単位の語りがあることで、読者の、贈呈式の会場を眺める時間が長くなるのですね!だからこそ、はなやかすぎる具体的な景色…会場の着飾った人たちも、ゴージャスなステージも、光も音も、あふれるように目に浮かびました。
(9)「でも、そんなことをこたえたら、「やっぱり、りすはりすだな」と、がっかりされそうです。」「でも」の次の読点をなぜ〈語り手〉は必要だと考えたのか疑問でしたが、朗読を聴かせてもらって納得がいきました。期待している地点から、がっかりしてしまう地点まで、階段を一段ずつ降りていくような心持ちの動きを促されるのです。きっとこれ正解の一つです。
理解が体験を可能にし、体験が理解を深化させるのだと、身体の深いところに刻むことができました。『こりす物語』、いよいよ次回は【6】ですね。ご一緒に〈作品世界〉を旅できて幸せです。心よりありがとうございます(^^)
森絵都さんの『こりす物語』記事:10月9日29日30日