今年もサマーセミナー特別講師を務めさせて頂きます(^^)
早いもので10年目です。ご一緒くださる大橋先生のお導き
に感謝。毎年、酷暑の中をお越しくださる皆さまに感謝!
サマセミ2019特別講座 「歌を朗読してみよう!Part.10」
★7月15日(月・祝)4限 14時50分〜16時10分
★南山高等中学校 女子部 教室:ライネルス
地下鉄・鶴舞線いりなか駅2番出口より徒歩5分
今年は、米津玄師さんの「lemon」を取り上げます。朗読
を通して、歌詞をじっくりと味わってまいりましょう!
学生さんと社会人の皆さまが、一つの教室に集い、一緒に
学びを深める素敵な機会ですね。皆さまのご参加を心より
お待ちしております✨(お申し込み不要です)
道中くれぐれもお気をつけていらしてくださいね☆
2019年6月25日火曜日
2019年6月22日土曜日
川端康成「伊豆の踊子」から繋がって…
川端康成の「伊豆の踊子」✨マイブームです(^^)
語り手である二十歳の青年にしっかりと寄り添うために、
彼との対話を続けています。この作品からもらった感動を
声に出せるように、そして〈朗読〉を介在させて、皆さま
とご一緒に「伊豆の踊子」を楽しめるように、励みます☆
『文芸春秋』の初期の同人として、川端康成、横光利一と
並んで世に称えられた中河与一。知らずにおりました^^;
教えていただいた代表作「天の夕顔」を求めるため書店へ
出かけ、書棚でとなり合っていた中村文則さんの「遮光」
も一緒に購入してきました。あゝ小説にしかできないこと
がここにある…感激しながら拝読いたしました。
「(前略)僕は小説というものに、随分と救われてきた。
世界の成り立ちや人間を深く掘り下げようとし、突き詰め
て開示するような物語、そういったものに出会っていなけ
れば、僕の人生は違ったものになっていたと思う。僕にと
って小説はかけがえのないものであり続け、また、生きる
糧であり続けた。こうやって自分で書くようになっても、
それは少しも変わることがない。(後略)」
二〇〇五年の中村文則さんの言葉です。中村さんの作品、
これからも楽しみに拝読したいと思っています(^^♪
語り手である二十歳の青年にしっかりと寄り添うために、
彼との対話を続けています。この作品からもらった感動を
声に出せるように、そして〈朗読〉を介在させて、皆さま
とご一緒に「伊豆の踊子」を楽しめるように、励みます☆
『文芸春秋』の初期の同人として、川端康成、横光利一と
並んで世に称えられた中河与一。知らずにおりました^^;
教えていただいた代表作「天の夕顔」を求めるため書店へ
出かけ、書棚でとなり合っていた中村文則さんの「遮光」
も一緒に購入してきました。あゝ小説にしかできないこと
がここにある…感激しながら拝読いたしました。
「(前略)僕は小説というものに、随分と救われてきた。
世界の成り立ちや人間を深く掘り下げようとし、突き詰め
て開示するような物語、そういったものに出会っていなけ
れば、僕の人生は違ったものになっていたと思う。僕にと
って小説はかけがえのないものであり続け、また、生きる
糧であり続けた。こうやって自分で書くようになっても、
それは少しも変わることがない。(後略)」
二〇〇五年の中村文則さんの言葉です。中村さんの作品、
これからも楽しみに拝読したいと思っています(^^♪
2019年6月20日木曜日
木村繁さん演出「父と暮せば」7月27日最終公演
人形劇団むすび座さんから公演のご案内を頂きました(^^)
木村繁さん演出の「父と暮せば」(作=井上ひさし)が、
最終公演とあります。数年前うりんこ劇場さんで拝見して
大感激したこと、今もはっきりと覚えています。今回は、
7月27日(土)14時〜・刈谷市総合文化センターアイリス
小ホールで上演されるそうです。(JR東海道本線・名鉄
三河線 刈谷駅南口よりウイングデッキ直結徒歩3分)
お申し込み・お問い合わせ〈むすび座 tel 052 623 2374〉
福永朝子さんの作品展のフライヤーも素敵です。
「ハテ、面妖な〜 妄想エリアの住人たち」
こちらは、7月23日(火)〜28日(日)、ノリタケの森
ギャラリーで開催。異界への旅情をかきたてられます☆
木村繁さん演出の「父と暮せば」(作=井上ひさし)が、
最終公演とあります。数年前うりんこ劇場さんで拝見して
大感激したこと、今もはっきりと覚えています。今回は、
7月27日(土)14時〜・刈谷市総合文化センターアイリス
小ホールで上演されるそうです。(JR東海道本線・名鉄
三河線 刈谷駅南口よりウイングデッキ直結徒歩3分)
お申し込み・お問い合わせ〈むすび座 tel 052 623 2374〉
福永朝子さんの作品展のフライヤーも素敵です。
「ハテ、面妖な〜 妄想エリアの住人たち」
こちらは、7月23日(火)〜28日(日)、ノリタケの森
ギャラリーで開催。異界への旅情をかきたてられます☆
2019年6月11日火曜日
どのような「葉っぱ」にしましょうか?
数年前お稽古で、谷川俊太郎さんの『言葉は』という詩を
テキストにしたことがありました。詩の中に出てくる言葉
「葉っぱ」に、青葉若葉のイメージへと聴き手を導く音を
与えた方がいらっしゃったので、その音ではなくて、秋の
落ち葉を聴き手の脳内スクリーンに創り出す音にしたほう
が面白いのではないかしら、と提案してみたところ…その
方の「葉っぱ」の音は、夏の日差しを跳ね返す力強い緑の
「葉っぱ」を想像させる音ではなくなりました。赤茶けた
落ち葉を思い浮かべながら朗読を聴かせて頂きました(^^)
朗読者の加藤咲子さんは、いま可児カルチャーの朗読教室
で、美しく優しい講師として活躍してくださっています。
「それって弱々しく発声するってことですか?」「低い音
にすればいいのでしょうか?」等々、お手軽に表現のコツ
を手に入れようとしてしまってはいけません。それっぽい
つくりものしかできあがらないから。しっかりとイメージ
することです。聴き手にどのような葉っぱを思い浮かべて
ほしいのかありありと思い描いて、その葉っぱをリアルに
感じとりながら、声を出してみましょう。そして録音して
客観的に聴いてみましょう。答え合わせしてみましょう。
聴き手となったあなたの頭の中には、どのような葉っぱが
見えてきたでしょうか?朗読者としてのあなたが、聴き手
に思い描いてほしかった葉っぱは、浮かんできましたか?
テキストにしたことがありました。詩の中に出てくる言葉
「葉っぱ」に、青葉若葉のイメージへと聴き手を導く音を
与えた方がいらっしゃったので、その音ではなくて、秋の
落ち葉を聴き手の脳内スクリーンに創り出す音にしたほう
が面白いのではないかしら、と提案してみたところ…その
方の「葉っぱ」の音は、夏の日差しを跳ね返す力強い緑の
「葉っぱ」を想像させる音ではなくなりました。赤茶けた
落ち葉を思い浮かべながら朗読を聴かせて頂きました(^^)
朗読者の加藤咲子さんは、いま可児カルチャーの朗読教室
で、美しく優しい講師として活躍してくださっています。
「それって弱々しく発声するってことですか?」「低い音
にすればいいのでしょうか?」等々、お手軽に表現のコツ
を手に入れようとしてしまってはいけません。それっぽい
つくりものしかできあがらないから。しっかりとイメージ
することです。聴き手にどのような葉っぱを思い浮かべて
ほしいのかありありと思い描いて、その葉っぱをリアルに
感じとりながら、声を出してみましょう。そして録音して
客観的に聴いてみましょう。答え合わせしてみましょう。
聴き手となったあなたの頭の中には、どのような葉っぱが
見えてきたでしょうか?朗読者としてのあなたが、聴き手
に思い描いてほしかった葉っぱは、浮かんできましたか?
2019年6月1日土曜日
📖 朗読発表中に本が落ちました(^^)
先日の朗読発表会。朗読を聴いて、気持ちよく作品世界に
入り込んでおりましたら……
その時、朗読者のお姿をぼんやり眺めながら聴いていたの
ですが、あらまぁお手元からふっと本が失くなりました。
床に落ちたのです。ページを捲る際に手が滑ったわけでも
なく、ふっと消えるように…
「失礼しました」との落ち着いた小声とともに本は手元に
戻り、朗読は続き、作品世界に遊ぶことができました✨
朗読者の手元から本が落ちるのを初めて目撃しました^^;
本に意識がいっていたら、あんなふうには落ちません。
(あゝ、あの難しい文章をすべて頭に入れていらっしゃる
のだな)そう思うと、感動で身体が震えました。
打ち上げの際に、「本は無いなら無いでよかったんですが
拾った方がいいかなと思って」とお話しくださいました。
たしかに本がないと、朗読者が語っているように見えて、
作品の奥行きを損ないます。拾って正解だと思います(^^)
朗読発表の場で、朗読者にとって本とは何でしょう?
それに頼らなければ朗読できない、というのではなくて、
文学作品における(朗読者を超えた)語り手という存在を
聴き手と共有するために必要な装置の一つ、なのですね。
入り込んでおりましたら……
その時、朗読者のお姿をぼんやり眺めながら聴いていたの
ですが、あらまぁお手元からふっと本が失くなりました。
床に落ちたのです。ページを捲る際に手が滑ったわけでも
なく、ふっと消えるように…
「失礼しました」との落ち着いた小声とともに本は手元に
戻り、朗読は続き、作品世界に遊ぶことができました✨
朗読者の手元から本が落ちるのを初めて目撃しました^^;
本に意識がいっていたら、あんなふうには落ちません。
(あゝ、あの難しい文章をすべて頭に入れていらっしゃる
のだな)そう思うと、感動で身体が震えました。
打ち上げの際に、「本は無いなら無いでよかったんですが
拾った方がいいかなと思って」とお話しくださいました。
たしかに本がないと、朗読者が語っているように見えて、
作品の奥行きを損ないます。拾って正解だと思います(^^)
朗読発表の場で、朗読者にとって本とは何でしょう?
それに頼らなければ朗読できない、というのではなくて、
文学作品における(朗読者を超えた)語り手という存在を
聴き手と共有するために必要な装置の一つ、なのですね。
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